思考実験:期待値+5%のコイントスでなぜ99%が破産するのか
物理学者 Ole Peters (2019) が提示した有名な思考実験を考えてみましょう。あなたに以下のゲームへの参加権が与えられたとします。
- 公正なコインを投げる(表が出る確率 \(50\%\)、裏が出る確率 \(50\%\))。
- 表が出たら:全資産が \(+50\%\) 増加する(資産は \(1.5\) 倍になる)。
- 裏が出たら:全資産が \(-40\%\) 減少する(資産は \(0.6\) 倍になる)。
1回のコイントスにおける算術期待値(期待リターン)を計算してみましょう。
期待値は堂々の \(+5\%\)(プラス)です。統計学の初歩しか知らない人は「期待値がプラスなのだから、このゲームを何回も繰り返せば億万長者になれる!」と歓喜するでしょう。
掛け算の現実:2回投げた後の資産
では、コインを2回投げて「表が1回、裏が1回」出たとします。元本100万円はどうなるでしょうか?
なんと、元本が \(10\%\) 減っています。表と裏が交互に100回(表50回、裏50回)出た場合、最終資産は以下のようになります。
元本は \(99.5\%\) 吹き飛び、資産はほぼゼロ(破産)になります。「期待値がプラスのゲーム」を愚直に繰り返した結果、参加者の \(99\%\) 以上が破滅したのです。
エルゴード性の破綻:アンサンブル平均 vs 時間平均
なぜこのような不条理が起きるのでしょうか? その理由は、確率論と統計力学における「エルゴード性の破綻(Non-Ergodicity)」にあります。
| 平均の概念 | 定義と計算方法 | 思考実験での結果(100回後) | 誰にとっての意味か |
|---|---|---|---|
| アンサンブル平均 (集団平均) | 並行世界に10,000人のプレイヤーを一斉に走らせ、同時点での全員の資産を平均したもの。 | 平均資産は爆発的に増加(数千倍)する(極少数の天文学的勝者が平均を釣り上げる)。 | カジノの胴元、保険会社、社会全体の総資本。 |
| 時間平均 (個人の軌跡) | たった1人の生身の人間が、時間を追って1回ずつ試行を繰り返したときの資産推移。 | 99%以上の個人が破産(元本割れ)する(掛け算の幾何減価に耐えられない)。 | あなた(個々の生身の投資家)の口座! |
生身のトレーダーは並行世界を生きることはできません。私たちは「たった1本の時間軸」を生きているため、重視すべきはアンサンブル期待値 \(E[R]\) ではなく、時間平均成長率(幾何平均成長率)なのです。
Kelly基準の数学的導出:対数成長率の最大化
資産のうち、取引に投じる割合(ポジションサイズ比率)を \(f\) とします。口座資産の成長過程は乗算モデルとして表されます。
1期間あたりの期待対数成長率 \(g(f)\) は次のように定義されます。
勝率 \(p\)、敗率 \(q = 1 - p\)、勝ちの利益倍率 \(b\)、負けの損失倍率 \(1\)(掛け金全損)の二値トレードモデルにおいて、対数成長率 \(g(f)\) を最大化する \(f\) を求めます。
これを \(f\) で微分して極大値(\(g'(f) = 0\))を求めます。
これが1956年にベル研究所の John L. Kelly Jr. が情報理論から導出したKelly基準(Kelly Criterion)です。
ボラティリティ・ドラッグの数理:\(\mu - \sigma^2/2\)
収益率 \(R\) が比較的小さい場合、テイラー展開 \(\ln(1 + x) pprox x - rac{x^2}{2}\) を適用すると、対数成長率は以下のように二次近似されます。
特に全資産を投じる場合(\(f = 1\))の幾何平均リターンは、算術平均リターン \(\mu\) から「ボラティリティの半分(\(\sigma^2 / 2\))」が強制的に差し引かれます。
この放物線が示す教訓は恐るべきものです。「Kelly最適点 \(f^*\) の2倍(\(2f^*\))を賭けると、期待対数成長率はちょうどゼロになり、それを超えると数学的に破産が確定する」ということです。
推定誤差とFractional Kelly(実務サイジング)
理論上のKelly基準(Full Kelly)をそのままリアルトレードに適用するクオンツはいません。なぜなら、「バックテストで得られた勝率 \(p\) やペイオフレシオ \(b\) は、過去データから得られた推定値に過ぎず、将来も同じとは限らないから」です。
もし過去の相場が良く、勝率をわずか5%過大評価していた場合、あなたが「最適」と信じて投じたロットサイズは、実際には「破滅ゾーン(\(f > 2f^*\))」に突入してしまいます。そこで、実務ではKelly比率に安全係数 \(\lambda \in (0, 1)\) を掛けるFractional Kelly(フラクショナル・ケリー)を採用します。
| 配分方式 | 安全係数 \(\lambda\) | 対数成長率(対Full Kelly比) | 最大ドローダウン | 実務での推奨用途 |
|---|---|---|---|---|
| Full Kelly | \(\lambda = 1.0\) | \(100\%\)(数学的理論最大) | 極大(\(50\%\sim 80\%\) 超のDDが日常茶飯事) | 破産確率が高すぎるため実運用では禁止。 |
| Half Kelly | \(\lambda = 0.5\) | \(75\%\)(成長率はわずか25%減) | 半減(大幅にマイルド化) | プロクオンツ・ヘッジファンドの標準上限。 |
| Quarter Kelly | \(\lambda = 0.25\) | 約 \(44\%\) | 極めて平穏(\(10\%\sim 15\%\) 以内) | 自己資金運用、精神的安定重視の運用。 |
「Half Kelly(\(\lambda = 0.5\))」にするだけで、成長率を \(75\%\) も維持しながら、ドローダウンの深さとボラティリティを劇的に半減させることができます。
ドローダウン制約と安全運用の統合プロトコル
実運用のポジションサイジングは、戦略の統計的検証(DSR・CPCV・PBO・SSR)がすべて完了した後に、以下の4段階プロトコルで設計します。
- OOS統計量からの基礎算出:CPCVの下位10%パスから保守的な勝率 \(p\) と損益比 \(b\) を抽出し、基礎となる \(\widehat{f}^*_{ ext{Kelly}}\) を算出する。
- Half Kelly制約の適用:\(f_{ ext{base}} = 0.5 imes \widehat{f}^*_{ ext{Kelly}}\) を上限とする。
- 最大ドローダウン制約(Hard Cap):過去最大DDの2倍を想定しても口座資金の20%以上の損失を出さないよう、1トレードあたりの許容リスク率(例: 口座残高の \(0.5\%\sim 1.0\%\))と照合し、小さい方を採用する:
f_{ ext{final}} = \min\Big(0.5 \cdot \widehat{f}^*_{ ext{Kelly}}, \; f_{ ext{DD\_cap}}, \; f_{ ext{broker\_margin}}\Big)
- 動的デレバレッジ:ドローダウンが拡大した際は、感情で取り返そうとロットを張るのではなく、口座残高の減少に伴ってロットを幾何学的に縮小(Fixed Fractional)させる。
統計的推定量(第1回)、PSR/DSR(第2回)、パラメータランドスケープ(第3回)、Purging/Embargo(第4回)、CPCV(第5回)、PBO(第6回)、SSR(第7回)、レジーム条件付け(第8回)、そしてFractional Kelly(第9回)。これらすべての数理を1本の完全無欠なチェックリストに統合するのが、次回第10回「統合検証プロトコル」です。
ミニテスト
4問の理解度テストです。
Q1. 算術期待値 \(E[R] > 0\)(プラス)である戦略を採用すれば、長期的に口座資産は必ず複利成長するか?
正解はCです。資産の複利過程は掛け算であるため、賭け金が大きすぎるとボラティリティ・ドラッグ(\(\sigma^2/2\) の減価)が期待値を上回り、長期成長率はマイナスへ転落します。
Q2. Kelly基準(Kelly Criterion)が数学的に最大化することを目的としている目的関数はどれ?
正解はAです。Kelly基準は、破産確率をゼロに抑えながら富の幾何平均成長率(対数成長率)を最大化するポジションサイズ比率を導出します。
Q3. 実務のリアルトレードにおいて、Full Kelly(100% Kelly)をそのまま使わず、Fractional Kelly(Half Kellyなど)に抑える最大の理由はどれ?
正解はBです。Full Kellyはパラメータの過大推定に対して極めて脆弱であり、最適値の2倍を賭けると成長率がマイナスになるため、安全マージンとしてFractional Kellyを用います。
Q4. バックテスト結果を見ながら、安全係数 \(\lambda\) を 0.1から1.0まで10通り試して「一番ドローダウンが小さく利益が出た \(\lambda\)」を採用した場合の正しい処理はどれ?
正解はCです。バックテスト結果を見てから都合の良いサイジング比率を選ぶ行為も過剰最適化(探索)の一種であり、試行数Nに加算しなければなりません。
学術文献・参考資料
- J. L. Kelly, Jr. (1956), "A New Interpretation of Information Rate", Bell System Technical Journal, Vol. 35, No. 4, pp. 917-926.
- Ole Peters (2019), "The Ergodicity Problem in Economics", Nature Physics, Vol. 15, pp. 1216-1221.
- Edward O. Thorp (2006), "The Kelly Criterion in Blackjack, Sports Betting, and the Stock Market", Handbook of Asset and Liability Management, Vol. 1, pp. 385-428.